何故人狼は新規に厳しいゲームなのか?

今や人狼というゲームは完全に市民権を得て、渋谷にいるギャル100人に「人狼って知ってる~~~??」と聞いたら70人くらいはリアクションしてくれるだろう知名度に育った。しかし、それはカジュアルなゲームとしての側面の人狼であり、所謂「人狼ガチ勢」の絶対数は驚くほど少ない。

何故、人狼は持続的に遊ばれるゲームとして受け入れられないのか?

 

その答えの一つとして 「人狼をガチでやる参入障壁の高さ」である。初心者に排他的と言い換えても良い。初心者があつまって人狼をやる分には楽しいけど、初心者がガチ勢に混じって人狼をすると途端にその排他性が姿を現す。

 

何故、人狼というゲームはここまで新規に厳しいのか?

 

勿論、用語やルールを覚えるのが難しいという側面もあるだろう。

ネット上、もしくはオフで知らない人とゲームをすることへの心理的抵抗もあるかもしれない

 

しかし一つの問題として、人狼をするコミュニティが、成熟すればするほど初心者に対し排他的になってしまうという構造的な欠陥があると思う。

 

全てのコミュニティは成熟してメンツが固定化されれば、身内感が出てくる。

んだから排他的になるのは当たり前だろ、という反論もあると思うしそれは実際正しいんだけど、それ以上に人狼というゲーム特有の問題があると思うので、それを提起したい。

 

ご存知の通り、人狼というゲームは、誰が狼かを推理するゲームであるが、

その推理の軸として 論理 と 感情 とがある。

ここで、論理軸の推理と感情軸の推理を以下のように定義する

 

論理軸の推理 今日は吊り数が最大人外数と同じだから、占い師に吊り手をかけないと間に合わないから占い師を吊ろう!だの、初日に狼の○○さんは✗✗さんに投票していたから、✗✗さんが狼の確率が低いだろう!という、事実に基づいた推理

 

感情軸の推理 ▲▲さんなんかテンション高いな…役職持ってるんじゃない?とか、 ここまで無防備に発言できる◆◆さんは逆に村人だろ!みたいな、感覚に基づいた推理

 

 

勿論、2つとも人狼をする上で大事な推理方法だが、この2つには大きな違いがある。

それは、  再現性があるかないか   ということだ。

論理軸の推理は、客観的事実を元にしているため、同じ状況で同じ手を打つことができるようになる。

そのため、所属する人狼コミュニティが成熟すればするほど、論理的な推理の方法論みたいなものが積み上がっていくことになる。

 

また、論理軸の推理は客観性があるため、その有効性が担保されやすい。

 

なので、そのコミュニティの経験値があがればあがるほど、人狼においても、よりロジカルな思考、方法論が好まれるようになる

(そのコミュニティでは占い切りの日はいつ?霊能のCOタイミングはどう?それは固定化されている?)

 

逆に言えば、感情面での推理がどんどん軽視されるようになっていく。

 

ここで思い出してほしいことが一つある。

 

誰しも、人狼を始めた最初の頃は、感情的な推理をしていた、ということである。

 

これはあたりまえのことで、人狼というゲームに対する経験値がない状況で人狼をやる場合、誰が嘘をついているか推理するための拠り所となるのは、今まで積み重ねてきた対人関係、コミュニケーションの経験(=感情軸の推理)となるからだ。

つまり、初心者において、感情軸で推理をすることは戦略としても正しいのだ。

 

しかし、この初心者がガチ勢(論理軸で推理することを好む人々)の群れの中に飛び込むと途端に、ある種の”洗礼”を受けることとなる

「進行わかってる?」「なんでその人が怪しいと思うの?なんとなくじゃなくて。」「とりあえずこの人議論についてきてないから吊りで」

 

という風になり、初心者はその人狼ゲーム内において価値を発揮できない。

そのため、成功体験も詰むことができず、ガチでやる人狼から離れていってしまうのだ。