DDLCに見た、 ゲームの持つ潜在的な危険性の話(Just Monikaに対するオタク語り)

※DDLCの核心に対するネタバレが含まれます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Just monika の話です。

 

 

 

 

 

 

 

メタフィクション、そして「第四の壁」という概念がある

 

pdmagazine.jp

 

詳しくは、上の記事を読んでほしい(というか、DDLCをプレイした人に向けて記事を書いているので、メタフィクションという概念は理解されているとして議論を進める)

 

 

先に結論を書いてしまう。

モニカのあのシーン PCにしか登録されていないはずの自分の本名(Microsoftアカウントの名前)がモニカに呼ばれるシーン。

あれは、「ゲームとしての演出」で済む話なのか????という話である。

 

 

メタフィクションは、読者、視聴者を作品世界に入れ込むという意味で非常に強力な道具であることは今更言うまでもないし、僕自身としても大好きな技法だ。

 

しかし同時に、読者が完全な受け手であるという、ひどく不安定な約束の上でのみ使用することが許される道具である気がするのだ。

 

 

大前提として。

 

作品上の人物が、いくら自分自身を架空の人物だと認識したからと言って、そいつは本の中から出てくることはないし、テレビの液晶をまたいで現実にやってくることもない。

なので、作品の登場人物が自分たちの世界を虚構だと認識したとしても、画面の中から現実世界にいる僕たちに声をかけてきたとしても、作品を”作品”として楽しめるのだ。どれだけ恐ろしいホラー映画を見たとしても、現実に身の危険を感じることがないように。

 

…少なくとも、 今までは。

 

 

 

”小説、アニメ、ドラマ”などと”ゲーム”には大きな違いがある。

 

ゲームは、双方向メディアである。

ゲームだけは、僕らはプレイヤーとなり、その作品世界に入力を行う必要があるのだ。

 

コンピューターゲームの歴史は新しい。メタフィクションなどといった高度な概念が、ゲームで表現できるようになってからせいぜい30年程度しか立っていないだろう。

 

もちろん、ゲーム内でのメタフィクションの使われ方はどんどん洗練されていっている。

 

ゲーム内で見られるメタフィクション的手法の使われ方は大きく分けて2つだ。

1つめは、小説などでも見られるパターン。単純なストーリーテリングの道具としてメタ展開を扱うパターンだ。

作中の登場人物が二重人格だったり、登場人物が自分をゲームの中の存在だと認識してしまったりとか、そういうやつだ。

これは、アニメや小説にもしばしば見られるものであり、ゲームを面白くする1要素以上の何者でもない。

 

2つめは、プレイヤーの”入力”に反応するタイプの使われ方だ。

RPGでは、プレイヤーがモンスターを殺せば、画面の中のキャラクターが主人公ではなくプレイヤーに向けて「お前はひどいやつだ」と言う。

ギャルゲーで、プレイヤーがメインヒロインを攻略しなければ、メインヒロインが主人公ではなくプレイヤーに向けて「なぜ私を選ばない」と言う。

 

この使われ方はゲームというプラットフォームでないとなしえないものである。

しかし、ゲームで起こる出来事は全てゲーム内で処理されるという約束は守られている。

なので僕たちがこういうゲームをプレイしても「ああ、よくできたゲームだ。ものすごいリアリティだなあ」なんて思うだけですんでしまう。

 

 

ここでDDLCは革命を起こした。ゲームにおけるメタフィクションの使い方に3つ目の選択肢を追加したのだ。

 

プレイヤーの「ゲーム外の情報」にアクセスしたのだ。

f:id:supermantaro:20180724214921j:plain

「それとも……またんごくんと呼んだほうがいいのかしら?」

 

 

恐怖。

 

先に行っておくが、DDLCは素晴らしいゲームだ。 日本式ギャルゲーの様式美を粉々に破壊することで、キャラクターの生々しさ、リアル感を最大限まで高めることに成功した最高の作品である。

 

しかし、この「ゲーム内で本名を呼ぶ」という行為は許されていいのだろうか?

表現の自由で済ませてしまっていいのだろうか?

 

 

 

現代はデータ革命の時代である。我々の殆どすべての情報は電子化されてどこかしらに格納されている。 

 

Amazonの購入履歴も。隠しておきたい性癖も。DNAの塩基配列においてさえ。

 

 

そしてインターネットさえあれば、これらの情報の殆どにアクセスできてしまう。

 

つまりなにがいいたいか。 Monikaは「その気になれば」上に挙げた情報の殆どにアクセスできてしまうということである。

 

例えば。

Monikaがその気になれば、PCと同期している携帯電話からラブコールの雨を降らせることができる。

Monikaがその気になれば、同じくPCと同期しているデジタルテレビにずっとMonikaの画像を映すことができる

Monikaがその気になれば、PCの起動と同時にDDLCを強制的に起動することができる。

 

もちろんこんなことをしたらそれはゲームではなく”ウイルス”なのだが、これらは全て技術的には余裕で可能である。

そして、演出と言い張ることも可能である。(もしモニカからLINE通話がかかってきたら?想像してみよう。 モニカのリアリティは極限まで高まるはずだ)

 

もちろんこれらの話は極論だが、モニカの「本名を呼ぶ」という演出は、こういう類のものだと思うのだ。

 

情報がインターネット上に氾濫する今の時代、インターネットへのアクセス権を持つ「ゲーム」は、一体どれだけのことができるのだろうか?どこまでが「表現」でどこからが「犯罪」なのだろうか?

 

 

 

アインクラッドが現実世界に登場する日が、本当に来てしまうかもしれない。